2017年7月16日 朝礼拝 『聞き届けて下さい』木谷 実 伝道師

歴代誌下6:12-21、テモテへの手紙Ⅰ 2:1-8

 ソロモン王は父よりの悲願であった神殿を、建設しました。人、物、時間が十分に使われた立派な神殿でした。ソロモンは神殿の完成を神様に感謝し、祈っています。「神は果たして人間と共に地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天も、あなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なお、ふさわしくありません。」神殿は神様を納める場所でも、住まわせる場所でもありません。神様が目を注ぎ、御名を置くと言われた所です。だからこそ、人は神殿に集って祭儀を行い、祈りを献げました。イエス様は神殿を「祈りの家」と呼ばれました。神殿は祈る場所です。神殿に置かれた神様の目、神様の御名に向かって、祈りを献げる場所なのです。
 神殿でソロモンは、献げられる「叫び」と「祈り」を聞き届けて下さいと祈りました。神様に向かって心を向けて、祈りは献げられていきます。自分のため、誰かのため、そして全ての人のために祈りは献げられていくのです。では「叫び」は何を叫んでいるのでしょうか。聖書に登場する人々は、神様を求めて、イエス様を求めて叫びました。助けて欲しいと人は神様、イエス様を求めていきます。人は神様を求めて叫ぶのです。
 祈りを叫びが聞き届けられることを願って、神殿は出来上がりました。私たちの生きるこの現代に神殿はもうありません。神殿という建物は、もう必要がないのです。それは、イエス様がおられるからです。イエス様は人の祈りと叫びを、神様へと執成して下さいます。神様へと届けて下さるのです。私たちの信じる一つの神様に、イエス様はたった一人の仲介者です。イエス様が十字架で処刑されたとき、神殿の幕が裂けました。これは、神殿がもう必要なくなったことを示しています。十字架で処刑されたイエス様を信じる者たちには、神殿は必要ではないのです。イエス様が執成し、叫びと祈りを届けて下さるからです。
 かつて神様は神殿に目を注ぎ、御名を置かれました。イエス様が執成して下さることによって、神殿ではなく私たち一人ひとりに、目が注がれて御名が置かれています。私たちには神様の目が注がれています。私たちには神様の御名が置かれています。だからこそ私たちの叫びと祈りは、聞き届けられていくのです。
 その私たちの共同体にも、教会に来ることの出来ない兄弟姉妹が多くおられます。心や身体の病、家庭の事情、住んでいる環境。様々な理由で、出席の適わない方々です。礼拝に集まっている人たちだけではなく、来ることの出来ない人々も含めた全ての人々のために祈りましょう。私たちは祈って祈られていく共同体です。祈りによって励まされ、祈りによって生かされていきます。神様が聞き届けて下さるからです。
叫びも祈りも、必ず聞き届けられていきます。それがいつ聞き届けられていくのかは、神様だけがご存じです。ですが、祈りも叫びも、必ず聞き届けられていきます。イエス様が執成して下さるからです。神様が私たちに目を注ぎ、御名を置かれているからです。信じて神様を求めて叫び、心を向けて祈ることが赦されています。叫び、祈ってまいりましょう。それは聞き届けられていくのです。