2017年7月9日 朝礼拝『一人も貧しい人がいない』大賀幸一牧師

 イザヤ 49:14-21、使徒言行録4:32-37
1)宗教改革500周年 
 今年は宗教改革が始まって500年ですが、果たして目指したところは実現されたのでしょうか。たとえば誰もが聖書を読むことが出来るようにすること。誰もが自分たちの言葉で聖書を読むことが出来るのです。今も自分たちの言葉で聖書を読むための翻訳事業は続いています。また万人祭司という言葉があるように特定の誰かだけが神様に愛されているのではなく、誰もが神様に愛されているのです。そんなところを考えますとまだまだ宗教改革の実現は途上にあるように思えます。唯一私たちの救いは神様の恩寵、愛にあることだけは変わることがありません。

2)教会と私たちの人生 
 教会が私たちの人生にどんな影響を、関わりをもたらしているのでしょう。私たちの人生に何の意味もないのに教会が存在しているはずもありません。たとえば、教会はわたしたちにとっての霊的な家族であると言われます。家族、普通家族は血縁による結びつきです。一緒に生活するのが家族です。教会はそれとは異なります。血縁でもないし、一緒に生活している訳ではない。使徒たちの時代は実際に家族のように共同生活が行われていました。もちろんそこに戻ることが必要なのではありません。教会は信仰においてつながっている共同体です。あるいは礼拝を共にする共同体です。兄弟姉妹をつなげているのは神様への信仰です。一緒に神様を礼拝するということです。信仰は一人ぼっちで成り立つものではありません。互いに愛し合うことがイエス様の求めるところだからです。時には意見が違い、反目し合い、傷つけあうことがあったとしても、私たちには共に歩む信仰共同体が必要なのです。再び立ち帰って互いに愛し合う教会が必要だからです。家族というものは時にはやっかいなもので、遠くて近く、近くて遠いものでることを覚えますが、それでも家族とは最後に戻りたいところではないでしょうか。家族というのがそういう場所であるなら、霊的家族である教会も最後に帰りたい場所であるはずです。そして私たちは家族の中で養われて来ましたように、霊的な家族も、私たちが養われるべき場所なのです。

3)使徒たちの教会 
 使徒たちの時代の教会、信じた人々の群れは心も思いも一つに、全てのものを共有していた、とあります。ただ物のやり取りのことを言っているのではなく、私たちの間にある強い結びつきを示しています。私たちのつながりは、血縁によらず、肉によらず、人間の欲によらず、神様によってつながっているのです。わたしたちはやはり兄弟姉妹が苦しむととても心配です。霊的なつながり、祈りによる交わりの中にあるからです。神様がおられて私たちの間を結びつけているからです。ただし目にも見えないし、形にも現れないのですが、確かなつながりがあります。そして使徒たちの教会は、主イエス様の復活を証し、非常に好意を持たれていた、とあります。何故好意を持たれていたのでしょう。神様を信じるという事は奇異の目で見られることもありますが、一種の敬意を持ってくださいます。それは神様を信じるものたちは、希望を失わないからです。そして使徒たちの教会は、一人も貧しい人がいないとあります。何故ならバルナバと呼ばれるヨセフの例のようにいつも誰かが捧げてくださるからです。誰かが必ずどこかで私たちのために祈って、捧げてくださるのです。そんなつながりの中にあるから、私たちは支えられ、守られ、補われて来ました。私たちの教会は、こんな確かなつながりの中で守られ、支えられ、進められています。神様の愛と恵みと私たちの祈りと信仰によるつながりです。私たちの人生に希望を与え、私たちを養ってくださる礼拝、信仰共同体です。