申命記26:1-11、2コリント8:1-15
1)エルサレム教会への献金
パウロたちは、エルサレム教会への献金をアジアやギリシャの教会に提案しました。真っ先にこれに賛同したのがコリント教会です。エルサレム教会が何故献金を必要としていたのか、災害、飢餓、そして元々貧しかったなどと言われています。パウロたちはエルサレム教会への募金に別な意味を持たせています。それは異邦人の教会からユダヤの教会に献げる献げものという意味です。ユダヤの教会の中には神の律法の何も知らない異邦人の教会を同じイエス様信じる教会として認めようとしない向きがありました。これは第1回エルサレム使徒会議において解決され、ユダヤ人も異邦人も皆神様の恵みによって救われる。誰もが神様から聖霊を受けられるのだという事を確認したのです。それでもパウロたちが育てた多くの異邦人の教会をイエス様を信じる教会と認めようとしない者も依然多かったのです。パウロたちはイエス様を信じる者たちが仲違いではなく、和解の道を行くためにこのエルサレム教会への献金を提案しました。パウロたちは問題を金で解決できると考えたのという批判もあるようですが、異邦人の教会の兄弟姉妹たちが献げたものが、エルサレム教会の窮乏を支えることに意味があったのです。
2)マケドニア州の教会
神様の教会、兄弟姉妹たちは、基本的に畑のものを全て収穫してはならない、貧しい人々のために残しておかなければならないとの神様の教えを大事にしています。分かち合うことの重要性を長い歴史の間も失いませんでした。しかし、人々の失ったものの大きさに対して、私たちが献げられるものの小ささを感じざるを得ないこともあります。1995年に起こった阪神淡路大震災。本当に未曾有の出来事で、人々の失ったものは膨大でした。それでも人々は何とか被災された人々の力になりたい、支えになりたいと考えるものです。私たちの献げものは被災者の皆さんに献げられたのですが、被災者の皆さんを満たすのには十分ではありませんでした。私たちは悲しみや喪失を完全に埋められなくても、一緒にいて少しでもその悲しみを担いたいと思って生きています。
3)7月の『信徒の友』
『信徒の友』の特集が、「教会がうまくいかないとき」というものでした。神様の教会でも、教会の中で問題が生じることがあります。コリント教会がそうでした。牧師と信徒、信徒同士。当然時にぶつかり合う事も、意見が相違することもあります。教会の中においてそうした問題が起こる音は不幸なことです。そこにはやはり驕りがある場合があります。『信徒の友』特集では、「赦し」「祈り」が忘れられないようにとありました。私たちが誰かを「赦す」となると大変大事ですが、パウロが求めようとしたエルサレム教会の窮乏、欠けを異邦人の教会が捧げて補おうとした、満たそうとしたことに通じるのではないでしょうか。誰もが完全ではなく、欠けがある。それは当然のことです。だからこそ私たちは互いに捧げ合い、互いに補い合おうとして来たのです。自分だけでは満たせないからです。又時には自分たち自身が補われることもあり、自分たちが補われることもあります。兄弟姉妹たちが落として行ってくれたものが私たちの窮乏を救ってくれるのです。
4)イエス様の貧しさ
私たちは、イエス様の貧しさに補われています。イエス様はいつも私たちを補うために自らの豊かさを捨てて貧しくなられました。私たちはいつもイエス様の貧しさに救われているのです。私たちの献げものも、兄弟姉妹たちの献げものと一緒になって、誰かを補います。誰かを満たします。わたしたちが求めている道です。私たちが目指している道です。