1)人に神を求めさせるため
異邦人の使徒パウロの伝道旅行の話です。第2回伝道旅行、神様に導かれてギリシャに上陸し、初めての土地で伝道していたパウロたちですが、同胞であるユダヤ人たちの反対に悩まされて、ここアテネに避難して来ました。パウロがそこで見たのは、無数の神々への祭壇、その中の一つに自分たちでさえもまだ知らない神様への祭壇が用意されていたというものです。アテネの町には沢山の神々の祭壇があったように、人間は昔から神様を恐れ、神様を知ろうとして来たことも確かです。人間たちが作った祭壇が証言しているように、その祭壇は神様が与えたのではありません。神様が造ったのでもありません。人間が作ったものです。人間が神様を求めているのは確かでも、人間たちが勝手に作った祭壇は、神様を表わしていないのです。人間が作り上げた神様に過ぎないのです。ただパウロは27節に、人に神様を求めさせるためであり、探し求めさえすれば神様を見出すことができる、と言っています。果たしてこれは本当でしょうか。人間が神様を求めて見出す、神様に辿り着くことは出来るのでしょうか。わたしたちは人間だけの力で神様に辿り着くことも、神様を知ることも出来ないと知っています。しかし、神様ご自身が私たちに御自分をお示しくださるなら、私たちでも、人間でも神様が分かるのです。神様が私たちにもご自分を教えてくださるからです。
2)全ての人に命と息と全てのものを与える
パウロが見つけた、知られざる神への祭壇。実はいまだに私たちは知られざる神様の祭壇の前にいるのかもしれません。わたしたちはどれだけ神様を知っているでしょうか。私たちは未だに神様を何も知らないのに、神様はわたしたちに、全ての人に命と息と全ての者を与えてくださるっています。今も世界を守り、支え、あらゆる命を守っているのは神様です。でも人間はそんな事さえも知らないのです。人間はちゃんと神様にこの命を守り支えられていることを知るべきでしょうか。知るべきです。知って何が変わるでしょうか。感謝して神様と共に生きて行けます。とっても大きな愛の中にあることを知って生きて行けます。これは決して小さなことではありません。人間たちはほとんど何も知らなくても、神様の示される正しい船に乗ってさえいれば、いつも守られ、支えられてその命を全うすることができます。しかし神様が示さない間違った船に乗ってしまうと、その命は道を迷い、不安の中をさ迷い、恐怖に追われて捕らえられてしまうでしょう。もちろん今でも人間たちの中には、神様の意に反して世界を破壊している者たちがあります。それでも神様によってこの世界は守られ、愛されています。神様の示される正しき船に乗ってさえすれば、神様は全てを整え、全てを守り養ってくださいます。
3)どこにいる人でも皆悔い改める様に
私たちに必要なことは何か。パウロはこれまでこの様な無知な時代を大目に見ておられたが、今や誰もが皆悔い改める様にと神様は求めています。その理由の一つはイエス様が来られたからです。そして審判の時が定められたからです。人間にも始まりを与えてくださったように、終わりがあるのです。いつか必ずその時がやって来るからです。そしてそのために必要なことは悔い改めです。悔い改めは、反省ではありません。神様に立ち帰ることです。神様にちゃんと目を向けることです。耳を向けることなのです。エゼキエル書に今日示されているように、神様の道は正しいのです。神様は正しいことを私たちになさっておられます。神様は私たちが生きることを求めて、働いておられます。これからも神様に目を向け、耳を向けましょう。神様は私たちの命を守り支えてくださいます。