ヨエル書2:23-3:2、ヨハネ14:23-28
五旬祭の日に、祭りで行われる集会のため、各地から多くのユダヤ人が集まっていました。礼拝をするために集った、信仰深い人々です。そこで弟子達に、聖霊が降ってきます。イエス様は聖霊が降ることを予告されていました。ですが、時期までは予告しておられません。弟子達は聖霊がいつ降るのかと待っていました。待ちわびた聖霊は、霊を象徴する風、言葉を象徴する炎の舌をもって、聖霊は降りました。霊によって新たにされ、弟子達には語る言葉が与えられます。
そして集っていた人たちの故郷の言葉で、弟子達は語りました。集っていた人たちは驚愕します。「なぜこの人たちが語りだすのか。」「酒に酔っているのではないか」夢か幻を見るかのような状況です。ですが、これも預言されていました。ヨエル書に「息子や娘たちは預言をし、老人は夢を見、若者は幻を見る。」とあるようにです。年若い者たちが神の幻を見、預言をする。そして経験を重ねた老人たちが、将来の夢を描く。通常とは反対のことです。聖霊が降ることによって、そのようなことが起こると預言されていました。相応しくない者たちが、相応しくないことをするようになる。そのような状況が訪れるのです。
イエス様は、過激な宗教者として処刑されました。五旬祭の日には昇天しているので、もう地上にいません。イエス様の弟子達は、処刑された人を指導者としている集まりでした。過激な宗教家の弟子達。しかも、もういない人のことを信じている。おかしな集団のように、人々の目には映っていました。信心深い人たちならなおさらです。そんなイエス様の弟子達が、雄弁に語りだしました。誰にでも理解できる言葉を用いて、神の業を褒め称えます。相応しくないと思われていた者たちが、語りだす。それは、人には理解し難い出来事でした。聖霊の働きによって、常識では考えられないことが起こったのです。
神様は相応しくないと思われている者たちに言葉をお与えになります。ですが、相応しくないと思われている者こそ、神様の目に適っているのです。社会からすれば弟子達は、負け犬同然の愚かな者たちです。しかし、弟子達は愚かだろうが、信じて聖霊を待っていました。待っていたことによって新たにされ、語る言葉が与えられます。語らされる者へと、変えられたのです。神様に言葉を与えられて、語らされる者です。語らされた者たちの言葉は、こうして私たちのもとへと届いています。私たちはペンテコステの出来事によって言葉を与えられた弟子達の、その先にいます。だからこそ、こうして御言葉による礼拝を献げることが、適っているのです。
今年も、五旬祭の日が来ました。収穫の祭りの日に、待っていた聖霊が降ります。このペンテコステの出来事を通して、私たちの歩みは始まりました。与えられた聖霊の働きを信じ、この日を祝ってまいりましょう。