列王記上17:17-24、マタイ12:38-42
1)数を数える
人間は年月を重ねて賢くなって行く、経験を積んで間違いを犯さなくなる、という事は間違いですね。ダビデ王というユダヤの王様としては最高の王様なのですが、若い間は追われて流浪の生活を送り、晴れて王様となってから、何の不自由もなくなってから多くの間違いを犯します。年齢と経験を積んでも間違いをすることがあるのです。ダビデ王は神様から試練を受けました。もう十分全ての事柄が整ったと思えるような時代に、それでも不安でたまらないのです。ダビデ王は試練の中で、全イスラエルを数えるという過ちをしてしまいました。何故数を数えてはいけないのでしょうか。ダビデ王が数えたのは、自分の手足として兵士となって自分のために戦う者が何人いるかを数えたのです。数え終わった後でダビデ王は良心の呵責を覚えました。ダビデ王は沢山の兵士を数えましたが、それで安心できるかというとそうではないのです。数えることで人間は逆に不安になったり、傲慢になったりいたします。私たちに真に平安を与えることも、幸福を与えることもないのです。
2) 徴を見せてください
イエス様の所にやってきた律法学者、ファリサイ派の人々が度々求めたのが、徴を見せて欲しい、という事です。徴とはイエス様が天からやって来た徴です。イエス様の答えは、無い、ということです。マルコ福音書は、はっきりとイエス様は徴はない、とおっしゃっています。マタイ福音書は預言者ヨナの徴の他は徴はない、とイエス様はおっしゃっています。徴は本来ないのです。徴は決して人間に神様を信じさせるものではありません。徴があれば人間が神様を信じるようになるのではないのです。
3)ヨナの徴
預言者ヨナの徴とは何でしょうか。 先ずこの預言者ヨナは、神様の前から逃げ出したということです。逃げ出す預言者ですが、神様から逃げることは出来ないのです。どんなに神様から逃げても、最後には神様につかまります。必ずなすべき道へと送り出されます。預言者ヨナはニネベという町に遣わされました。神様に伝えよと言われた通りの事をヨナは伝えました。しかし人々は、すっかりヨナの言葉を信じました。ヨナは何か特別なことをしたのではありません。ただ神様に与えられた御言葉を語ったのです。但し一生懸命時間をかけて町中に語りました。全ての人に語りました。すると町中の人が神様を信じたのです。ヨナの徴とは正にこのことです。徴があれば人間は信じるのではありません。神様があるから人間は信じるのです。神様がわたしたちを信じさせてくださるから私たちは神様を信じられるのです。又預言者ヨナの伝道によって、ニネベの町の人々が神様を信じる者となったので、神様はニネベの町が滅びることを辞めました。神様は思い返される神様です。人間たちの命を大事にされる神様です。右も左もわきまえない人間たちを、命へと導いているのが神様です。イエス様がおっしゃっていますように、ヨナが大魚の腹の中に3日3晩いたように、イエス様も大地の中に3日3晩いることになる、とおっしゃっています。イエス様の十字架から復活までの3日間、正しく空白です。弟子たちが経験したのは、イエス様を失い、希望もなく、道も見えない空白を示されたのです。しかし、神様を信じ、従う者たちはこのような空白の3日間を知っています。何も見えない、何も希望が無い空白の日々を。ただ忘れてはなりません。それは永遠に続くものではありません。ある限られた期間、神様を信じる者たちは、この空白の期間を乗り越えて行くことを求められます。この空白を乗り越えるならば、主の復活の栄光、永遠の命の喜びを知る者となりますニネベの人々に笑われないようにしなければなりません。何故ならニネベの人々は、ヨナの言葉を信じたからです。あの時何故信じなかったのかと悔やむことのないように、神様が与えてくださる愛と恵みの御手を掴むのです。