1)私の杯を飲む
ゼベダイの子ヤコブとヨハネ、その母がイエス様に願い出たというお話です。マタイ福音書では、ヤコブとヨハネのお母さんが登場しているのですが、マルコ福音書では登場していません。元々この出来事は、ゼベダイの子ヤコブとヨハネが願い出たお話しなのでしょうか。このお話の後半で他の弟子たちが文句を言っているのが、ヤコブとヨハネのことであって、お母さんにまで文句を言っていないところを見ると、張本人はヤコブとヨハネなのだろうと想像されます。あなたが王座に着かれる時、あなたの王国において一人を右の座に、一人を左の座に着かせてください、という願いです。イエス様は、あなたたちは私の杯を飲むことができるのか、と訴えています。ヤコブとヨハネは即座に、出来ますと応えています。イエス様もそれを認めて、確かにそうなるだろう、と。イエス様を信じ、従う者は皆イエス様の飲む杯を飲むのです。事実私たちは聖餐式で、イエス様が与えてくださる杯から飲みます。イエス様と分け合うのです。それでもイエス様の右左の席は神様が決めるのであって、イエス様が決めるのではありません。その座に何があるのでしょうか。きっとイエス様とその左右に座るものたち、いつも一緒にある者にしか見えないこと、聞けないことがあるのです。神様がイエス様のために最も信頼できるものが、その座に座ることになるのです。その場所はやはり特別な席なのです。
2)偉くなりたい者は
イエス様は、偉くなりたい者は、一番上になりたい者は、とこう言われるのですが、私は決して偉くなりたくもないし、一番上にもなりたくないのです。唯そんな私もイエス様のおられる場所に一緒にいたい、イエス様の愛の中にいつもいたいと願っております。そうあるために、いつもイエス様に従って歩いているつもりなのに、いつの間にか私たちは、イエス様から遠く離れている。もちろん離れたいからではなく、従っているつもりなのに、ついて行けない、自分の能力では着いて行けないのです。どんどんイエス様は私たちから遠く離れてしまうのです。でもそれが事実なのでしょう。もうイエス様が見えなくなってしまったと思っていたところ、実はイエス様は一番後ろにおられるということがあります。イエス様に従う者たちは皆に仕える者であることを要求されています。イエス様のように仕えることを目指してきたはずなのに、今自分の立っている所を見ると、イエス様のおられるところと随分離れていることを思わされることがあります。又イエス様から離れてしまったと思うことが。ところがイエス様は、そんなに離れたところにはいないものです。自分たちがずっと遠くにおられると思っていても、実はイエス様はわたしたちのすぐそばにおられるのです。何故なら、イエス様ご自身がおっしゃっています。人の子は仕えるために来たと。わたしたちにまで仕えてくださるために、イエス様は来られたのです。ただイエス様と共にいたいと願うものは、イエス様と共に生きるのです。イエス様が仕えるために来た様に私たちも仕える者として生きるのです。
3) 私の杯を飲む2
もし私たちがこれからもイエス様のおられるところにいたい、と願いうのなら、私たちのために仕えてくださるイエス様を見てください。イエス様と共に食べてください。イエス様の飲む杯を飲んでください。わたしたちはこの新しい年度もイエス様に愛されて、成長したいと願います。成長するためには、イエス様が祝福して、与えてくださる食べ物が、飲み物が必要です。私たちの前には全てのものがありますが、全てのものが私たちの命を成長させるのではありません。食べてはならないものもあります。見分けてください。その上で、わたしたちはイエス様が祝福して、分け与えてくださるものを共に分かち合って行きましょう。