出エジプト24:3-11、マタイ17:1-13
1)契約締結
モーセの時代、場所はシナイ山と呼ばれる山です。ここで神の民は神様と契約を結びました。山に登るのは残念ながら全員ではありません。選ばれた者だけが山に登り神様の臨在を見ることになります。モーセの時代にはモーセとアロンたちと70人の長老たちであったと記されています。そこで彼らが目にしたものは神様の臨在を示す何かがあったのでしょう。それは神様の脚の下のサファイアの敷石のようなものだったとだけ示されています。これに先立ってシナイ山の麓では、モーセによって契約締結式が行われています。先ず神様からいただいた御言葉を読み上げます。この神様の御言葉を聞いた者たちはこれに応答しました。私たちは主が語られた言葉を全て行い、守りますと、誓約をしたのです。この契約を完全にするために、和解のために犠牲として献げられた雄牛の血が人々に振り掛けられました。
2)変貌の山
さてイエス様の時代、場所はどこかの高い山です。既にイエス様の弟子たちは、イエス様を神様が遣わされた救い主キリストであるという信仰告白をしています。そして弟子たち全員が山に登ったのではなく、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの3弟子だけが山に登り、そこでイエス様の真の姿、人間としてのイエス様の姿も真の姿ですから、イエス様の神様としての姿を示されたのです。ここでペトロは、ここに3つの仮小屋を建てましょうかと提案しています。イエス様、モーセ、エリヤのために。仮小屋ですから本来の家ではないことを示しています。日本でも古来より3種の神器とよばれますように、3つのものによって神様の御業は示されて来ました。キリスト教においてはものではなく、王、祭司、預言者と呼ばれています。キリスト教における3つのもの、王祭司預言者は、神様が私たちを救うために用意してくださった事柄でもあります。それはパウロの言う、信仰と希望と愛へと発展して行くものでもあります。これらの3つの存在が、私たち人間を導いて、私たちに救いを、命を与えてくれるのです。王は、世界を統治する存在です。つまりわたしたちは神様のもの、神様に属する者ということです。私たちの世界は神様の愛によって生まれた世界です。この世界の王は神様です。私たちは神様と共に生きて行くものです。神様以外の別の王はありません。そして祭司は神様と私たちとを執り成し、その関係を回復する存在です。昔は献げものとして動物の命が献げられました。今はもう必要ありません。イエス様の場合は、これから全ての人のために御自分の血を持って契約の保証とされました。ですからイエス様はいつも私たちを神様と結び合せてくださいます。イエス様がわたしたちの大祭司、私たちのための犠牲の献げものだったのです。又わたしたちの全てを償い、贖ってくださいました。最後は預言者、預言者が与えるのは神様の御言葉です。神様の民が生きて行くためには神様の御言葉が必要なのです。神様に属し、神様に従うものならば、神様の御言葉が、その命を養い、導いてくださるのです。この事からも分かるように、神様は必ず私たちのために用意をして、私たちがイエス様を信じて、神様に従う者となるように、可能な限りの準備をなさっているのです。王、祭司、預言者という3つの存在は、私たちが救われるように、命を得るように、神様が用意してくださったのです。ペトロが仮小屋を建てましょうかと言った時に、人間たちの耳に響いて来た声。私の愛する子、心に適う者、これに聞け、との神様の声を私たちも聞いたのです。神様が示されたのはこれに聞けということです。その時モーセもエリヤもいませんでした。ただイエス様だけがおられました。全てをイエス様が担っています。ですから私たちが信じ、聞き従うべきは、この方、イエス様に聞き従う、それが私たちの命の道です。神の教会の道です。