コヘレトの言葉5:14、ルカ23:39-49
1)メメント・モリ
わたしたちは、愛する兄弟姉妹の尊い死をもって、自分たちにも死ぬべき時が神様によって与えられていることをいつも思い知らされます。誰にでも必ず死ぬべき時が、生まれる時と同じように神様によって与えられているのです。アルフォンス・デーケン先生(上智大学名誉教授、神父)と出会ったのは私がまだ30代、岡山の教会でのことです。デーケン先生は、人間は誰もが死ぬべき時がある。必ず経験しなければならないのに私たちは自分たちの死について何も知らない。どうして知らないのだろうか。その原因は、誰も人間の死の世界について教えてくれるものがないということです。だからと言って自分たち自身の死の事を何も知らないでその時を私たちは迎えなければならないのでしょうか。デーケン先生たちは、わずかでも死について学んで行くことが、死に対する不安や恐怖を取り去り、穏やかに自分たち自身の死を迎える事が出来るはずと考えました。人間が不安になる原因は、何も分からないからです。少しでも死について知ることが不安を取り除くことができると確信したからです。死に行く人間について、自分の事も愛する者の事も、その時私たちは何が出来るのか。医療に関してより、霊、魂の苦しみの問題に関してです。死の苦しみをどのように和らげ、死を受けれて行くかということです。神様を信じる兄弟姉妹たちがたいてい最後には死を受け入れて死を迎えられます。それ以外に道がないとも言えますが、それこそが私たちの最良の道だと気づくからです。しかし、誰もが最初は死を恐怖し、不安に陥り、死を逃れる道はないかと探し求める者です。そして遂には自分の死を自然な事柄として、越えて行かねばならない大事な時として受け入れて行かれます。
2)罪の死
私たちが自分たち自身の死も含めて死を受容して行く過程でどうしても考えておかねばならないことがあります。それは罪、罪の死ということです。パウロは、神様が私たちに律法をくださって初めて私たち人間は自分たちが罪の中にあることを知らされたと告白しています。何故罪が死なのか。そもそも人間の肉体が衰えて、死を迎えることは当たり前のことでした。しかし人間が神様に背き、和解しないままである時、人間の肉体の死は終わりなのです。私たち人間はこの肉体を去る時、神様のおられるところに帰るべきものですが、神様と和解できず、帰る道を失い、希望を失った状態なのです。誰もが見失っている魂の苦しみ、罪の死の苦しみを解決しなければ、死の恐怖を越えて、死を受け入れることが出来ないのです。
3)イエス様の死
しかし、助けは神様が与えられました。神様は私たち人間と和解するためにイエス様を遣わしてくださったのです。神の子の死が、私たちを救ってくださるのです。私たちはまだ自分たちの死を知りません。しかしイエス様は死を知っているのです。死を知ってさらにその死から復活され、わたしたちを導いてくださいます。イエス様が私たちでさえ知らない自分立人下の死を知っているという事は大きいのです。だからこそ私たちを導くことができるのです。更に死からその先へと導いてくださるのです。イエス様は死者の世界への光を、命をもたらしました。イエス様の知らない世界はありません。イエス様の命を受けない世界はどこにもないのです。私たちは皆裸で生まれて来ました。そして私たちは皆裸で帰るのです。コヘトトの言葉がこう教えています。神様は、私たちが裸になって、神様の御許に帰れるように必ず導いてくださいます。裸にならないと神様の所に帰ることが出来ないからです。イエス様が御国においでになる時、わたしたちをも思い出してくださいますように。