イザヤ2:1-5、マタイ24:36-44
1)ノアの時と同じ
本日からアドヴェントに入りました。今日のマタイ福音書に、「人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである」と記されています。「その日、その時は誰も知らない」とありますように、洪水がやって来るまで人々はまさかそんなことが起こるとは誰も予想しなかったのです。ノアの時代に起こった洪水の話しは、巨大な自然災害を思わせます。今年も数々の自然災害に世界は見舞われました。それが何故かは分かりませんが、私たちの地球にはそうした自然災害が起こることを忘れてはならないのです。ノアの物語、神様は人間世界を襲うであろう大きな自然災害の危険をノアを通して教え、備えるように警告しました。ノアだが救われれば良かったのでしょうか。実際にはノアの家族が救われています。ノアの家族だけを救うことが神様の目的だったのでしょうか?この時代人間の世界には暴虐が満ちていた、と表現されています。人間の世界には、神様への信仰も希望も愛も正義も揺らいでいた。失われていたのです。人間たちは自分たちの欲望の声に耳を澄ませ、神様の声、先人たちの声に耳を貸そうとはしない時代でした。自分たちは間違っていないとして、経験を積んだ人々、先人たちの言葉に自分たちの自身の持つ歪みや弱さを顧みようともしない時代です。神様は人間たちを戒めようとしました。はるか先に起こるであろう巨大災害の発生を持って人間たちに神様の声に聞くこと、隣人の声に聞くことを与えたのです。神様に従わない人間を罰するのが神様の目的であるなら、すぐさま洪水を来らせれば良いのです。しかしそうなさらなかった。神様に従わない人間を殺すことが神様の目的ではないことが示されているのです。ノアたちは神様に命じられて箱舟を建造しました。箱舟は水の上に浮いていれさえすればいい箱型の船です。その箱舟を作るのに、1年2年では完成しません。ノアと3人の息子たち夫婦だけで作りました。何十年もその生涯をかけて作ったのが箱舟なのです。新約聖書ペトロの手紙には、ノアの時代、神様は従わない人間たちをずっと待っていたのだ、と記されています。神様は待っているのです。人間たちが神様の声を聞いて、神様のところに帰って来るのを。だから長い時間をかけてノアに用意をさせていたのです。ノアたちは箱舟に乗り込むように神様に命じられました。箱舟の側面に1つだけ用意されたドアを閉じたのはノアではありません。神様です。ノアは自分たちだけが助かるためにドアを閉じません。神様は最後の最後まで、人間たちが神様の声を聞くのを待ち続けていたのです。
2)一人は連れて行かれ、一人は残される
マタイ福音書には、畑に二人の男がいれば一人は連れて行かれ、一人は残される、とあります。連れ去られるよりは残される方が良いように思うのですが、実は全く逆で、連れて行かれるのは神の国なのです。残されるのは混乱と破壊の中なのです。しかし神様は全てを混乱と破壊の中に置くようなことはしません。一人は神様が連れて行かれるのです。全てが滅びるようなことを神様は求めていません。だから私たちの神様は、私たちに教えるのです。忘れてはならない、目を覚ましていなさい、と。
3)主の山に登り
今日の説教題は、わたしの間違いで、主の山に昇り、となってしまいました。気づいた時には遅かったのです。そんなことにならないようにしないといけません。まだ帰る道がある間に気づかなければなりません。神様は確かに人間たちに災いを与えて、人間たちが悔い改めて神様に帰る、ということを行われます。そして今日のイザヤ書に、「主はわたしたちに道を示される。私たちはその道を歩もう」とあります。正にその通りです。神様はわたしたちが生きる道を示して下さいます。神様が教え示して下さる道は、剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする道です。人の子なるイエス様を迎える道が続いている場所です。