創世記13:1-18、マタイ3:7-12
1)目を上げて眺める
私たちの人生で、何を見て選ぶのか、最も大事にしなければならない大事な選択があることです。この選択に間違えれば、幸福をつかむのか、それとも不幸をつかむのか、人生の分かれ道がそこにあります。今日は最初に旧約聖書の創世記、アブラハムの物語を読みました。アブラムは家族共にはるばる旅を続けて見知らぬカナンの土地へやって来ました。苦労を重ねて彼らは遂に多くの財産を持つようになりました。しかし財産が増えることでこれまでにはなかった問題が新たに生まれても来ます。財産が急激に増えたために、一緒に行動し、住み続けることが困難になったのです。
2)一緒に住むには十分でない
アブラムがはるか故郷を出発した時からずっと一緒に行動していた一人が甥のロトです。多くの財産を持つようになってアブラムは、ロトにも財産を分け、多くのものを持つようにしたのです。しかし彼らの持つものが多くなりすぎて一緒に住めなくなってしまいます。家畜を飼う者の間で不満や争いが絶えなくなってしまいました。これまでは同じ一つの家族であったのですが。アブラムは争いを避けて、二つの群れが生きて行くため、道を分かれて別々の土地に暮らすことを決断します。アブラムはロトに先に選ぶことを与えました。ロトが見るとまだこの時代後に起こるソドム、ゴモラの町々が崩壊する前で、低地は見るからに暮らすのに適した場所と見えたようです。ロトは自らの目で見て選び、低地へ移って行きました。そして低地の町々に住むようになり、最後にはソドムの町に天幕を移した、そこを自分たちの家としたとあります。しかしソドムは神様に対する邪悪さそのものという場所でした。
3)アブラムはカナン地方へ
アブラムが選んだのは山地、ごつごつした岩山です。ところがロトと別れた後のアブラムに、神様が現れてアブラムを祝福してくれました。アブラムとロトとがもめている時に神様は現ることもアドバイスしてくださることも有りませんでした。今二人が話し合い、平和な解決を選択した時、神様は現れるのです。もちろん神様は一部始終を御存知でありましょう。しかし手も口も何も出しません。全てをアブラムとロトに任せています。こんな時に神様が手や口を出したらどうなったのでしょうか。自分で選べるのに選ばせてくれなかったことは人間を成長させるのではなく、人間を頑なにしてしまうことがあります。アブラムは神様から祝福されてあなたの見ている土地を全てあなたとあなたの子孫に永久に与えると約束されたのです。神様の永久とは絶対、変わることのない約束です。ただこのことが人間の世界で確立されるためにアブラムはまだ時間を必要としています。何故ならすでにその土地には大勢の先住民が住んでいるからです。神様がアブラムに与えたのは、先にある人々を殺し、追い出して全てをアブラム一人だけに与えることを神様が求めていると考えてはなりません。時間と労苦を越えて神様の約束されたことは実って行くのです。少なくともアブラムはそういう生き方をしました。アブラムはこの神様の祝福、約束を得て、ヘブロンへ天幕を移します。ロトはソドムへ天幕を移します。ロトの選択が間違っていたわけではないのです。しかしソドムへ辿り着いたのは間違った選択でした。
4)主のための祭壇
アブラムはヘブロンに辿り着き、マムレの樫木のところに住んだとあります。マムレの樫木は、古木で神々の木として崇拝されていた木です。しかしアブラムはマムレの樫木を崇拝はしません。アブラムはそこに主のための祭壇を築いて神様を信じ続けます。実はアブラムがロトと別れる時、重大な選択をする時、その場所はどこであったか。それはアブラムたちが始めて未知の土地カナンに辿り着いた時に神様を礼拝するために祭壇を作った最初の場所だったのです。人間の選択の場に、神様への祈り、神様への礼拝がなければ、良き選択はありません。洗礼者ヨハネは、自分たちの祖先はアブラハムだなどと自慢するな。神様はこんな石から神の民を作り出すことが出来るのだと思いなさい、と。石ころのような存在から神様は神の民を育ててきたのだという事です。ただ神様がいなければ石ころです。でも神様がおられたので石ころのような存在が養われ、育てられて来たのです。神様は生きておられます。