出エジプト34:4-9、ローマ7:1-6
1) 確かに頑なな民ですが、あなたの嗣業と
出エジプト記34章、エジプトから解放された神の民たちは、神様と契約を結び神の民となりました。それでも神の民は、神様に対する堅い信仰に立つことはなく、度々神様を疑い、信じなくなることばかりを繰り返しています。モーセが神様から神様の10の言葉をいただいた時、モーセを待っていた神の民たちは、モーセはもう死んだのではないかと不安になり、自分たちを導く神様を自分たちで作り上げるという大変な過ちを犯してしまいました。わたしたちも死者の魂が語りかける言葉を聞いているのです。神様に愛されながらも神様を最後まで信じられず、神様に背き自滅していった人間たちの魂の叫びを聞いているのです。出エジプト記34章6-7節、神様ご自身が神様とは何を自ら定義しています。神様ご自身が神様とは何者かをご自分が示されたのです。神様とはどこまでも憐み深い、罪を赦される神、そうでありながら罰すべき者を罰する神様である。罰するのは命を救うためであることを忘れないでください。そしてモーセは神様に応えています。私たちの中にあって進んでください。確かに頑なな民ですが、私たちの罪と過ちを赦し、あなたの嗣業として受け入れてください、と。モーセの切なる祈りです。
2)律法に対して死ぬ、神様に対して実を結ぶ
パウロさんは少々不思議なたとえをなされました。結婚した女性たちは、夫が生きている間は縛られていますが、夫が死ねば自由です、ということです。夫に縛られているというのは少々きつい表現ですね。互いに重荷を負い合っている、と言い換えた方がいいでしょうか。しかし夫が死ねば自由であることに間違いありません。私たちはそういう状態だとパウロさんはたとえたのです。あなた方も神の律法に対して死んだ者となっています。死んだ者となっているというのですから、神の律法に殺されたのです。神様の律法に背き続けたから、満たせなかったから死んだのです。神様の律法とは、イエス様が示されたように、神様を信じ、神様を愛することが第1で、隣人を愛することが第2です。この神様の律法は永遠のものです。変わることも有りませんし、なくなりません。律法に対して死んだ者、すなわち既に審判を受けて有罪となり、実刑を受けたのです。一事不再理と言う言葉があるように、既に審判を受けた事柄で再度処罰を受けることはないのです。ところが問題が起こるのは、律法に対して死んだままであれば問題ないのに、いつもどこかで私のエゴが生き残っている、死なないでいるから問題なのです。本当に律法に対して死んでいるならもう審判を受けることはないが、まだわたしたちのエゴが生き残っているのです。神の律法は永遠のものですから、それを満たさない限り許してくれない。完全に神の律法に対して死んだ者であることが、神の律法から自由になる道なのです。そしてもう一つ、神の律法は永遠のものですから、只死ぬだけではだめなのです。神の律法を満たさなければ、一歩も先に進めません。でも誰も満たせないから、誰もが律法の前に死んだ者となったのではなかったでしょうか。どうやって満たせばよいというのでしょう。それでみなさんお待ちかねの、“キリストの体に結ばれて、死者の中から復活させられた方のものとなって”、これの出番です。イエス様が私たちに代わって律法の呪いを受けてくださった。イエス様の愛がわたしたちを包んでくださっているから私たちは律法を満たして行けるのです。何とずるいことでしょう。ずるくてもいいのです。それ以外に私たちが生きる道はないのです。