2016年6月5日 朝礼拝 『初めから聞いた事を留めよ』大賀牧師

ヨハネの手紙1 2:22-29
1)オッターバイン記念日 
 私たちの教会はアメリカで生まれ、京都キリスト同胞教会が私たちの教会の元々の名前です。同胞教会では毎年6月第1主日は、オッターバイン記念日として覚えるようにとされて来ました。18世紀後半、1784年頃アメリカ、ペンシルバニア州で、改革派教会のウイリアム・オッターバイン、メノナイト派教会のマルチン・ベームとが出合い生まれたのがキリスト同胞教会です。同胞教会ではありませんがメソジスト教会のフランシス アズベリが二人の出会いに深く関係しています。改革派教会は宗教改革者カルバンの流れをくむ伝統的な福音主義教会です。ベームのメノナイト派教会は平和を愛する非暴力を主張する教会です。メソジスト教会は関西学院大学などを作り、聖霊に導かれ完全を目指す信仰者の教会です。共通しているのは個人の明確な回心、霊的な覚醒を大切にしているという事です。回心というのはイエス様によって私たち人間が神様に立ち帰ることを示しています。反省ではありません。この回心を起こす力は何かというと、神様の愛と御言葉です。そしてそれを教え導く聖霊の働きです。つまりこれは全部神様が与えてくださる事柄なのです。人間は自分の力で自分を救えるかというと救えないのです。では人間を救うのは誰かというとそれは神様なのです。ただ神様の愛と恵み、神様の恩寵が人間を救うのです。そこでいつも問題になって来るのが、人間の意志、自由は何もないのか、ということです。全ては神様の恵み、恩寵にあって、人間は何もしなくていいのかということになるのです。カトリック教会は神様と人間の働きが協力して救いをもたらす、と考えて来ました。宗教改革者たちは、ただ神様の恵みのみが私たちの救いです。人間の遺志は関係ないのです。ただ強いられた恩寵が神様から人間に与えられているのです。しかし現代の教会は、人間の救いはもちろん神様の恵みのみにあるのです。ですが人間の遺志、自由を無視できない。どんなに神様が愛し、恵みを与えても、人間はそれを受けることも退けることもできるのです。そうなると神様の愛と恵みが豊かにあっても、人間が受けるかうけないかで決まるとすると結論は人間次第という事なってしまいます。それで終わらないから神様の御業なのです。ハバクク書2:3、たとえ遅くなっても待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。と示されていますし、イザヤ55:11、私の口から出る私の言葉も虚しくは私の元に戻らない。私の望むことを成し遂げ、私が与えた使命を必ず果たす、と神様は語られているからです。

2)初めから聞いていた事 
 スポーツや伝統的な芸術、芸能、技術において、基本が出来ているかどうかはとても大事なことです。その基本を命に刻み込むために日夜努力し、毎日練習を欠かしません。プロフェッショナルな人々は、毎日基礎練習、基本を欠かすことがありません。そして何か壁にぶつかったとき必ず言われることが、基礎に、基本に帰れ、ということです。いつの間にか基本が忘れられ、無駄なことを付け加えていたり、勝手な解釈がなされていたりするからです。そうした時人は必ずもう一度基本に帰るべきなのです。基本が出来ているなら、基本に戻りさえすれば、私たちはすぐにでも間違いを正し、歪みを直し、失われた時を取り戻すことが出来るのです。私たちにとって基本は、イエス様です。最初からそこに全てがあります。それ以上は何も必要ありません。イエス・キリストが私たちの基本です。それ以外のものを付け足すことも必要ありません。神様はイエス様を通して、私たちの救いを全てここに与えてくださいました。神様は私たちの救い、命のために一番最初から全て与え、用意されておられるのです。イエス様は、私たちの為に神様が遣わしてくださった私たちの救い主、キリストです。いつも私たちには、神様が注いでくださる油、聖霊の働きの事ですが、聖霊なる神様がいつも私たちと共にいてくださいます。私たちを導いてくださり、教え養ってくださいます。これが私たちの基本です。