2016年4月3日 主日朝礼拝 『私の手を見なさい』大賀幸一牧師

1)真ん中に立つ 

 イエス・キリストは十字架にかけられ、殺されました。それから3日後、弟子たちが集まっている家があります。自分たちも命を狙われるのではないかとびくびくしている弟子たちは、ドアと言うドアに鍵をかけて潜んでいます。すると鍵をかけていたはずなのに、イエス・キリストが突然弟子たちの真ん中に現れたというのです。そして御自分の手、わき腹などをわざわざ見せたというのです。もちろんそこには、十字架につけられた時にでかい釘ではりつけにされた時の大きな傷跡が開いていたというお話です。ところが間が悪いと申しますか、こういう大事な時に限っていないやつがいるのです。名前はトマスと言います。ディディモと言って双子です。この男が厄介な人間なんです。わざわざお師匠さんが、イエス様が自分がいない時にやって来たと言うので、腹を立てるのです。腹を立てただけでなく、自分は絶対に信じないぞ、と怒り出す始末です。ついにはお師匠さんのその傷、十字架にはりつけにされた時の傷を見ないと信じない。見ただけじゃだめだ、その傷に指を突っ込んでみないと信じないぞと言いだす始末です。もうここまで来ますと、駄々をこねて暴れまわるこどもです。自分の思い通りにならないと泣き叫ぶ、あかんたれです。8日後、再びイエス・キリストが弟子たちの前に現れたというのです。この時にはトマスもいたようです。それで見てみなさい、指を入れてみなさいと言われたのですが、いえいえ、もう結構です。駄々っ子ですから、自分の思い通りになったら、もういいのです。イエス様は、信じるものになりなさい、と教えられました。


2)入所式、開所式 

 4月1日は雨でした。同胞の家の新入所式、小規模保育所こばとの家の開所式が行われました。同胞の家、イサク事業所に7名の入所者がありました。そして同胞保育園の二つ目の小規模保育所が開所しました。こばとの家と名付けられました。ちいさなこどもたちの姿を見ていて思い出しました。信じる、というのは何かをくれるから信じるではない。何かをしてくれるから、何か条件を満たしてくれるから信じるでもないのですね。小さなこどもたちがお母さん、お父さんに示す姿に示されているように、全く無条件に信頼している、無条件に信じているのです。信じるというのは本来そういう姿なのだと思いだしました。ところが私たちは何時しか疑うという事を覚えるようになりました。無条件で信じていたことをいつしか疑うようになったのです。もうそうなったら無条件で信じる、信頼することが出来なくなってしまいます。信じるためには、本当に信じられるのか、信じるに足るのかその証を求めたりしてしまいます。残念なことです。昔は本当に無条件で信じられていたのです。同胞の家の入所式で、新入所者が突然立ち上がって走り出して、どこかのドアから外に出られないかと走り出した人がいました。いつもと違う出来事に大変緊張されたのでしょうね。私も保育園の初日に逃げ出した経験がありますので、ちょっとだけ分かるような気がします。同胞会で働く皆様方の日常には、本当に無条件で皆さんを信頼してやってくるこどもたちがあります。又皆さんを信じようとしてやって来る入所者の人々があります。完全なことは難しくても、皆さんを信じてやって来るこどもたち、入所者の皆さんを宜しくお願いいたします。神様は、無条件に信じられなくなった人間であっても、人間の願いや思いに応えて上げたいと思っている方です。でも本当は信じるというのは、何も疑うことなく、無条件に全てを委ねることなのです。