イザヤ5:1-11、ヨハネ20:1-18
1)まだ暗いうちに
イエス様は金曜日に十字架につけられ、殺されました。過越しの祭りと安息日を迎えました。イエス様を信じる人々は暗闇を感じていました。マグダラのマリア、イエス様の母マリアなど女性たちがイエス様の墓に着いた時、まだ世界は闇の中でした。もうまもなく朝が来ようとしています。朝が来ようとしている時が最も闇が暗い時だと言われています。わたしたちも闇の中を歩んで来ました。闇を越えて来ました。イエス様の十字架を見つめる者たちは、イエス様の死を目撃しました。間違いなくイエス様が死なれたことを知ったのです。自分たちの弱さを、足らなさを、イエス様を見捨てて逃げ去った愚かさを、人間たちは誰もが感じていました。正に暗闇の中に私たちは置かれたのです。しかし、それは当然の結果です。何故なら私たち人間世界は、神様が愛して遣わされたイエス様を、自分たちの意思で殺したのです。神様の愛を拒否し、神様の赦しを踏みにじったのです。そんな人間にあるのは只暗闇以外ありません。誰もがこの暗闇を経験するでしょう。又イエス様の十字架を見つめる者たちは、イエス様のなさってくださったことを知る者です。イエス様はわたしたちの身代金となってくださった。私たちを贖い、私たちを解放するために、自らの大切な命によって私たちを買い取ってくださったのです。ですから私たちはイエス様の奉げてくださった愛の大きさにひれ伏すだけですが、イエス様を殺し、イエス様のいなくなった世界の暗闇を感じていたのです。この暗闇はいつまで続くのか、まるで明けることのない暗闇であるかのように、闇は暗く、重いものでした。
2)主が墓から取り去られた
イエス様の墓は、開かれていました。重い扉の石は取り除かれ、そこにはイエス様はおられませんでした。マグダラのマリアは急いで男性の弟子たちに伝えたのです。ペトロとヨハネは驚いて墓に向かい、確かにイエス様のお墓にはイエス様の遺体がなかったことを伝えています。でもマグダラのマリアもペトロたちも大事なことを忘れているのです。彼らが捜しているのは、イエス様の遺体です。でもイエス様は復活されたのです。イエス様は生きているのですから、墓の中に遺体を捜しても見つけられるはずはないのです。又イエス様の遺体は、モーセの時のように隠されました。人間たちが遺体を特別な呪いの道具にしないためです。イエス様は暗闇を越えて、再び私たちの前にその命を、その姿を示されました。それは、わたしたちがイエス様を信じて、従うためです。命につながるためです。
3)掃除がしてある空の部屋
ルカとマタイ福音書に悪霊が人間から出て行ったあと、行く場所がなくてもとの人間のところに戻って来るというお話があります。戻って来ると綺麗に掃除がなされていてピカピカになっている。それで悪霊は自分よりももっと悪い悪霊の仲間を連れて来て、掃除がされて綺麗になっている空き家である人間に住み着くようになった。するとその人間の状態はもっと酷い状態になったという話です。イエス様が私たち人間をピカピカに掃除、磨き上げてくださったのです。それだけでは空っぽのままです。空っぽな人間の中にこれまで以上の悪い者がやって来て住み着く、前よりもその人間はひどく苦しめられるようなるのです。イエス様がご自分の命を持って私たちをきれいにしてくださった。それで満足して終わりではありません。綺麗になった私たちの命が、復活のイエス様を迎える事が大切なのです。イエス様につながるものとなることが大切なのです。イエス様に満たされることが必要なのです。空っぽのままでは悪い者に狙われるでしょう。私たちがイエス様に満たされることが、私たちの命を永遠へと進めます。私たちは、イエス様を迎え入れ、永遠の命を得るのです。