申命記8:1-6、ヨハネ6:1-15 大賀幸一牧師
1)5千人の食事
イエス様の示された大事な出来事の一つが5000人以上の人たち、男性だけの数ですが、この人たちと一緒に食事をしたということです。どの福音書にもそれぞれ記されています。但しそれぞれを読み比べてみると少しずつ違いがあります。ヨハネ福音書ではイエス様と弟子たちは人々の姿を見つめながら、これだけの人を食べさせるにはどこのパン屋が良いだろう、とイエス様が話されています。フィリポは200デナリオンかけてパンを買ってもこれだけの人だと食べさせるのは大変でしょう、とつぶやいています。そしてどの福音書にもイエス様の手元にあるのはパン5個、魚2匹です。ヨハネ福音書ではシモン・ペトロの兄弟アンデレがこれを報告しています。さらに他にはない新しい情報を与えています。このパンと魚、元々イエス様たちが持っていた物ではないのです。少年のものなのです。少年一人の食事には量が多すぎますので、このパンは少年がイエス様のためにプレゼントしたパンだと言われています。ここでアンデレは言っています。ですけどこれだけではとてもどうにもなりません、と。しかし、イエス様にはそれが聞こえなかったかのように、これだけではどうにもならないパンをみんなと一緒に食べようといたします。
2)パンを取り
さてイエス様はパンを取り、感謝の祈りを唱えて、座っている人々に分け与えられました。皆さんお気づきでしょうか。ヨハネ福音書では、この5000人以上の人々の食事の場面で、大事なことが欠けているのです。まずパンが取られ、感謝や祝福の祈りが献げられ、パンが裂かれ、そしてパンが弟子たちに渡されて配られて行きます。この4つの行動が必ず受け継がれているのですが、ヨハネ福音書ではパンが裂かれていないのです。パンが裂かれるとは、イエス様の十字架を象徴しています。神の子キリストが、私たちの為にあえて御自分の体を命を裂いて、私たちに与えてくださることを象徴するのです。しかしパンは座っている人々皆に分け与えられていると記されていますから、分け与えられるためには、パンは裂かれなければならないのです。そうでなければ私たちはかぶりつかなければなりません。ですがイエス様はパンを裂いて、分け与えてくださっています。
3)命のパン
実際には裂かれて分け与えられているはずのパンがヨハネ福音書では隠されているのは何故でしょう。そこにはこの後イエス様の分け与えたパンを食べた人々の姿と関係があるかもしれません。イエス様はこの後でパンを食べた大勢の人々と再会した時に、「朽ちる食べ物のためではなく、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」と教えているのですが、人間にはこの言葉が分からなかったのです。そして神の業を行うためには何をしたら良いのかとの問いに、神様が遣わされる者を信じることだと教えます。そして永遠の命を与える命のパンとは、モーセの時代にマナを食べたのとも違い、その人々も遂には地上の生涯を終えて死んでしまったように、マナを食べても人は死んだのです。しかし真の命のパンはあなたたちに永遠の命を与えるのです。それはイエス様ご自身であり、イエス様の肉を食べ、血を飲まなければ永遠の命は無いと教えられました。それを聞いた多くの人々はイエス様から離れて行ってしまったのです。イエス様の示すことが分からなくてです。イエス様が私たちに与えようとしているのは私たちの命を真に永遠の命へとするものです。イエス様の肉と血は、神様の愛と御言葉で出来ています。神の御言葉が人となった、それがイエス様だからです。人を永遠に生かすのは、パンではなく神様の霊と御言葉です。それを私たちに与えようとされる神様の愛です。これらのものはもちろん人間の目には見えない事柄です。見えないけれども、確かにあるのです。イエス様がパンを裂いたことが隠されているように。私たちに与えられた神の業は、神様が遣わされたものを信じる事。私たちの命に必要なのは、皆さんと一緒にイエス様の与えるパンを分かち合う事、そして神様の与える霊と御言葉です。