2016年1月31日朝礼拝『癒したのはイエス』 大賀牧師

ヨブ23:1-10、ヨハネ5:1-18

1)ベトザタの池
エルサレムの神殿の城壁の北にベトザタと呼ばれた池があったそうです。池の周りと真ん中に柱と屋根だけがある吹きっ晒しの回廊があり、至る所に病人が溢れ ていました。何故なら皆順番待ちをしていたからです。そこに来られたイエス様の足はある男の前で止まりました。そして「良くなりたいのですか」とおっ しゃったのです。この男性、歩行困難、介助者のサポートがなければ日常生活さえも困難を極めています。38年間この症状を抱えています。良くなるとかは失 われているのではないでしょうか。そこにイエス様の言葉「良くなりたいのか」は驚くほど唐突です。ですが、イエス様はこの男性を何も見ないでこういってい るのではありません。この男性が38年間病気を抱えて生きて来たことを認めた上でこう尋ねていることを理解していただきたいのです。わたしたち人間は病気 になった、この病気を抱えている歴史、カルテがあるのです。そのことをイエス様は承知の上で、こう尋ねているのです。

2)ヨブ記
先週に続いて今日は旧約聖書ヨブ記を読んでいただきました。ヨブの訴えは神様は私のことをちゃんと知ろうともせず、私を放り出したままだ、ということで す。神様どうか私のことを知ってください、私を覚えてください、と訴えているのです。私を知ってくださったのなら、私がどのような者か分かってくださるは ずだとヨブは訴えています。ですが神様は私を知ろうとしてくださらない、私に会ってくださらない、と嘆いています。但し神様はヨブを御存じなかったことな どあり得ません。その最初から神様はヨブを御存知でした。38年間病気の男性をイエス様は知りました。私たちの教会でも毎週祈祷会で祈祷目標として祈って いるのは兄弟姉妹の快復がほとんどです。もちろんわしたちにはイエス様のように38年間の病気のカルテを読む力もありませんし、全てを知っているわけでは ありません。しかし神様が兄弟姉妹を知っておられ。兄弟姉妹たちが戦っている病気を御存じである。そのことを覚えて共に祈っております。誰も忘れられては いません。

3)入れてくれる人がいない
38年間病気だった男性は、水が動く時、私を池の中に入れてくれる人がいないのです、とイエス様に訴えています。肢体不自由な男性ですから誰かのサポート がなければ治療も受けられない状態なのです。ただしこれまで誰も男性をサポートして来なかったというのではありません。肢体不自由な男性が病気を抱えて 38年間生き続けているという事に示されています。男性に家族があったのかどうかわかりません。しかし男性をサポートし、男性の命を保たせてきた誰かがい たはずです。それでも24時間男性に張り付いていることは出来なかったのです。それが限界でした。家族もサポートしてくれる人たちも精一杯男性を支えられ たのではないでしょうか。

4)誰であるか知らなかった
38年間病気だった男性は、イエス様を知りませんでした。人間は自分たちの自身の苦しみは知ってもらいたい。私たちのことをもっと知ってもらいたい、と願 いながらも、自分たち自身は神様を何も知らないのです。もちろん神様は私たちの事を知っています。38年間病気だった男性は、イエス様によって癒され、床 を担いで歩きなさいと命じられ、その通りになりました。しかしそれを邪魔する、安息日を盾に邪魔する者たちのあったことを聖書は伝えます。同じように神の 教会が神様のなさった御業を否定するようなことにならないようにと心がけねばなりません。そしてイエス様が癒してくださったのに、そのイエス様を病気だっ た男性は売り渡すこととなりました。自分が癒されたことを確定するために、安息日に律法に反するようなことをしたのはイエス様だと訴えたからです。それで もイエス様はわたしたちを受け留めてくださっています。そしてイエス様はおっしゃっています。神様は今もなお働き続けているのだから、わたしも働くのだ、 として、私たち人間の命のために、私たちを愛し、癒してくださるために、働き続けてくださっているのです。