サム上3:1-10、ヨハネ1:35-51
1)サムエル記
サムエル記の中に記されてテーマも、神様への信仰が期待されたようには次の世代に受け継がれて行かないということです。サムエルは生まれてまもなく大祭 司エリの養子となります。エリのふたりの息子はならず者でした。サムエルは成長してイスラエル中の尊敬を集めますが、その息子たちは人々から金品をもらっ
て神様のみ言葉を曲げる人間となってしまいます。信仰の継承、これはいつだって教会、信仰者たちの重要な課題です。年頭の役員会でも丸太町教会の未来を語 る中で、課題とされているのが信仰の継承です。しかしなかなか思い通りにならない。思ったようには進まないのです。これはキリスト教だけの問題ではなく、
仏教界、神道の世界でも同じだと伺いました。つぶれるお寺、神社が後を絶たないようです。これはあくまでも人間の側の都合です。信仰そのものが、教えその ものが間違っているのではありません。ユダヤ教でさえも一度死にかかったのです。キリスト教も何度も死にかかって来ました。しかしその信仰が、教えが本物 ならば、どんなに危機に陥っても再び力を、勢いを取り戻すのです。
2)何を求めているのか
さて、そこでわたしたち信仰者たちの人生にとって、神の教会がその使命を果たすために何が必要かということです。ヨハネ福音書では、洗礼者ヨハネの弟子 であった者たちは、ナザレのイエスが神の小羊である、と紹介されて、イエス様に従って来ました。「何を求めているのか」とのイエス様のお尋ねに、アンデ
レ、シモン・ペトロの兄弟ですが、彼は「どこにお泊りなのですか」と問うています。つまりイエス様はどこにおられるのか、と問うているのです。イエス様は 私について来れば分かる、と教えています。アンデレたちはイエス様に従って行って、イエス様がどこに宿っているのかを知る者となりました。そしてアンデレ
からシモン・ペトロへと伝わっています。フィリポからナタナエルにナザレのイエスが伝えられました。しかしナタナエルはナザレなんていうちっぽけな村から 何が生まれるはずがあるか、と否定しました。それはナタナエル自身がそうやって否定されて来たのでしょう。イエス様はちゃんとナタナエルを見定めました。
この人こそ本当のイエスらエル人だ、と。辺境の土地、ガリラヤに真のイスラエル人がいるはずもないと見なされていたのでしょう。しかし本物のイスラエル人 が辺境の土地にいたのです。イエス様はちゃんと本物を見抜く方です。それでナタナエルの心も変わりました。イエス様を信じ、イエス様に聞き従う者となって
行きます。わたしたち信仰の生涯を歩んでいる者に必要なことは、神様の御言葉を、御声を聞き続けることです。イエス様の御言葉を聞き続けることです。日本 の人々は1年に1回で足りると考えていますが、それではとても足りません。何度聞いても、人間の中に思った通りには受け継がれて行かないからです。だから
こそ人間はいつも神様の御声に心を開いているべきなのです。サムエル記のイスラエルの大祭司エリでさえ神様の御声を聞かず没落してしまったのです。神様が 語らなかったのではありません。神様はちゃんと語っておられる、注意を与えているのです。聞こうとしなかったのは人間です。私たちの人生にとって、神様が
与えてくださる御言葉、御声は大事な力、大事な智慧です。大祭司エリが行った素晴らしいことがあります。まだ神様を知らなかった少年サムエルに、どのよう に神様の御声を聞いたら良いのか教えたことです。「主よ、お話しください、僕は聞きいております。」神様の御声を聞くことを教えたことです。